TOP  > 用語集 > 「競技空手の歴史」について

用語集「競技空手の歴史」について

大東亜戦争(米呼称では太平洋戦争)敗戦後、日本はアメリカGHQの占領下に置かれ、3S政策において武道禁止令が発令された。


その時期、国務大臣であり小野派一刀流宗家である笹森順造氏や鹿島神流18代宗家国井善弥氏などの活躍もあり、日本武道の精神性がアメリカにも影響を与え、「日本武道は残すべき伝統の1つである」という意見にまとまり、後に武道禁止令はスポーツ化を条件に解禁になったという歴史がある。


その後、空手道においても組手が競技化、興業化され現代に至る。
日本で最も最初に行われたのが、無流派主義を唱える錬武館が考案した剣道のような防具を使用しての「全国防具付空手道選手権大会」である。
この最古の空手大会は現代も続いている。


その後、拓殖大学の空手部が中心とって考案した「寸止めルール」が安全性の高さ、古伝の稽古法に近いという点から、多くの流派で広く愛好されるようになる。
その後、昭和32年に全日本学生空手道選手権大会が開催された。そうした理由から寸止めルールの元祖であるという矜持が学生空手道連盟にはある。


その後、松濤館流、和道流、糸東流、剛柔流、その他諸派連合会、錬武会が参加して全日本空手道連盟が発足した。
昭和44年に行われた同連盟主催の「第1回全日本空手道選手権大会」が寸止めルールによって行われ盛況を極め、現在の空手の主流となっている。

それに異と唱えた大山倍達が独自理論で現在のフルコンタクト空手の前身となる直接打撃制の大会を模索した。
その後、氏によって極真会館が設立される。


その後、空手界は乱立が続いているが、元々、一人一流派というのが唐手の思想であり、その状況は技術発展を促すことともなり、一概に悪いとは言えない。
しかし、オリンピック競技採用を巡っては、各々の流派や会派のルールを採用するわけにはいかず、一つのルールにまとめなければならない。
そこで競技人口が最も多く、安全性の高い、寸止めルールが採用された。



>用語集TOPへ戻る