第二話「はじめに失ったもの」


私は5歳になった頃、一つ失ったものがある。
この失ったものが幸か不幸か、私の武道人生を濃厚にするキッカケだった。


それは視力だ。
格闘技の現場、武術の現場において視力は命である。
何を隠そう、私はほぼ片目の視力しかないのだ。


それは5歳の頃。
昭和天皇が崩御された年だった記憶がある。
町中が悲しみのムードに包まれ、何も言葉にできないような異様な空気感があった。
それは子供の頃の私にも、分かったくらいだ。


私は子供の頃、基本的には、温厚な子供だった。
温厚というと聞こえはいいが、気弱な男の子だった。


父のギャンブル中毒、アルコール中毒によって金銭苦を強いられていた。
そして、当時は家族全員が母の障害者年金申請の存在を知らず、国や県、市からの助成もない。


お陰様で幼稚園や保育園の類は通ったことがなく、幼児教育は受けてはいない。
ましてや家賃が支払われず、夜逃げ同然の引っ越し半年単位で余儀なくされる生活だった。
そうなると当然、友達ができるはずもないのである。


正直、食べる物もろくに食べておらず、元気もない。
慢性的な栄養失調状態で、とても元気に遊びまわる気力もないのだ。


よく近所の人に「元気のない子だね」とか、「ワシの子供の頃は終戦後だったが元気に遊び回ったものだ」といった説教?のようなものを受けていた覚えがある。
正直言って、この頃から「それはお門違いだぜ」という反発意識があった。


終戦後は誰もがひもじい思いをしたのかもしれない。
しかし、飽衣飽食の時代の中でのみすぼらしさと言ったら惨めだ。
着る物も毎日同じで、食べ物もろくにない。
公園で遊んでいる子供と比べても歴然の差がある。
そういった惨めさが子供心に劣等感を覚え、友達を作ることを避けていたのある。


とまぁ、そんな私ではあったが、友達を3〜4人作ることができた。
どんな決心をしたのか今となっては全く覚えていないが、このままではいけないと子供心に感じていたのであろう。
そして、友達から友達へと輪は広がっていく。


しかしながら、異質な空間で育った私は、人の輪が苦手であった。
次第に私のことを気に入らない人間も出てくる。


ある日、父が珍しくパチンコで大当たりを出した。
その時のご褒美(というのか分からないが)としてオモチャの刀を買ってもらった。


私はこの頃から刀などの武器類が異常に好きだった。
外で遊ぶことは嫌いな癖に、なぜか武器類を手にしたり、戦いのようなものが好きだった。
そんな私は、このオモチャの刀を方時も離さず、公園を闊歩したのである。


そんなとき、1人の友達から呼び止められた。
「貸してよ〜!」


この声はケンタ(仮)の声だ。


今思うとなんと心の狭い奴だと思うのだが、当時の私は人に物を貸すのが嫌だった。
必ず盗られるという意識があるからだ。
私は家で「盗まれる」という感覚を強く覚えていた。
母から食事を奪われる、父からはお小遣いと称してもらったものを後から奪われる。
そんな日々が続いているからこそ、人に物を貸すことに嫌悪感を持っていた。


「嫌だ!嫌だ!」
そうこう拒んでいるうちに、いつの間にか奪い合いとなっていた。


向こうは向こうでムキになり始めた。
ムキになるというより、今時でいう"キレる”という奴だろう。


私はこの時、この時、自らのオモチャの刀で右目を刺された。


事故ではない。
今時の格闘技用語で言えば、マウント状態から刀で右目を刺されたのだ。
今でも、その瞬間の様子をハッキリ覚えている。


刺された瞬間、周りの景色が急に緑色になった。
世界が緑色で覆われたと思ったら、まるで深夜にテレビ放送が終了したときのザーと白黒で波が表れるのと同じような様子が脳内を駆け巡り、右半分が真っ暗になった。


私はこの時、恐怖を感じた。
何にと言えば、親にだ。
父は病院をとにかく嫌う。
なぜならギャンブルで使う金がなくなってしまうからだ。


とにかく私は痛みをこらえ我慢した。
この時、あまりの痛みに記憶にないが、数日か乗り越えた後、父の給料日を迎え、晴れて入院した。
この我慢が祟ったのか入院から数日した後、左目の視力も失っていた。



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